ペルガモンの歴史
Updated: 5/14/2022 Original: 3/8/2018
古代都市ペルガモン (Pergamon、現在のベルガマ) は、頂上がフラットな丘の上にある都市で、見学中は絶えず風が吹き上げていました。
羊皮紙(Parchment, 字義的には『ペルガモンからの』)の語源になった都市です。アレクサンドリア図書館に次ぐ蔵書の図書館があったといわれています。おそらく人口もかなりあったんでしょうね。神殿跡、劇場跡、大祭壇跡などなど、要塞で囲まれた範囲だけを歩くのでも随分とかかりました。
ちなみに、エジプトのプトレマイオス朝 (Ptolemaic dynasty) がパピルス紙製造権を独占しており、それ抵抗して羊皮紙を発明し自分の都市の名前にしたという伝説があるようですが、後代の創作らしいです (P. Green, Alexander to Actium. The historical evolution of the Hellenistic age, p. 168.)。
歴史 (英語版 Wikipedia より抄訳)
ヘレニズム以前
発見されている陶器の破片がギリシャやコリントから持ち込まれたものである可能性から、おそらく紀元前8世紀には都市があったのではないかと考えられている。
元々はペルシャ領で、クセルクセス1世 (Xerxes I、別名アハシュエロス)によって土地を得たギリシャ出身のゴンギロス (Gongylos) 一族が統治していた。クセノフォン (Xenophon) がその時代にペルガモンを訪れている。
のちにアレクサンダー大王 (Alexander the Great) によってペルシャの支配から離脱。
ヘレニズム以後
アレクサンダー大王の将軍の一人リュシマコス (Lysimachus) によるトラキア (Thrace) 王国の一部となる。ペルガモン市はリュシマコスの副官フィレタイロス (Philetaerus) が治めることになったが、リュシマコスの死をきっかけにアッタロス朝 (Attalid dynasty, 紀元前281–133年) が創建される。
紀元前261年には、後継者エウメネス1世 (Eumenes I) がサルデス (Sardis) にてアンティオコス1世 (Antiochus I) と争い、ペルガモンの領土を沿岸地域にまで拡張した。
紀元前238年には、続く後継者アッタロス1世 (Attalus I) がガラテア (Galatia) との戦いに勝利し、脅威を排除。
4回のマケドニア戦争 (Macedonian War) (紀元前214-205年、同200-196年、同172-168年、同150-148年) および、ローマ・シリア戦争 (Roman-Seleucid War, 紀元前192-188年) ではいずれもローマ連合に属しており、セレウコス朝 (Seleucid Empire) アンティオコス3世 (Antiochus III the Great) が破られた際はセレウコス朝の領土を与えられた。
アッタロス1世に続くエウメネス2世 (Eumenes II) 時代に、ゼウス神 (Zeus) をまつったペルガモン祭壇 (Pergamon Alter) や、図書館が建設された。
紀元前133年、後継がなかったエウメネス3世がペルガモンをローマに譲渡することを決定。アッタロス朝は終わり、領土はローマ、ポントス (Pontus)、カッパドキア (Cappadocia) の領土として分割された。都市ペルガモンは自由都市を宣言し、のちにエフェソス (Ephesus) が取って代わるまでその地域の中心都市となった。
ローマ属州時代
ローマ属州になってからもペルガモンは地方議会を開くほどの都市として栄えた。アウグスツス (Augustus) の時代には、アジアで初めて皇帝に献堂された神殿を建設する許可 (Neocorate) が与えられた。
大プリニウス (Pliny the Elder) は「博物誌 (Natural History)」の中で、その地方で最も重要な都市と述べている。
のちにトラヤヌス (Trajan) が都市の改修を行い、2度目のNeocorateを受けた。ハドリアヌス (Hadrian) はペルガモンをメトロポリスへと引き上げた。これによりさらなる都市拡張が行われた。アスクレーピオス (Asclepius) 神殿は治療のための温泉施設として拡張され、ローマでも有数の療養都市となった。
やがて3世紀に入ってローマが混迷するに至って経済が悪化し、262 AD大地震によって都市は壊滅的影響を受けた。のちにゴート族 (Goths) の侵入をうけ、以前ほどに回復することはなかった。