ミュラの歴史
Updated: 5/14/2022 Original: 12/18/2019
曲がりくねった海岸線を走り続けて突然出てくる変哲のない街に、その遺跡はありました。
2019年12月、デムレにあるミュラの遺跡を訪ねました。岩肌をくり抜いて墓穴としているネクロポリスが有名です。息を呑む光景でした。
ネクロポリスのすぐ横が劇場になっていました。保存状態が比較的良い部類に入るのではないかと思います。規模からして古代も大きな都市だったのでしょうね。
考えてみるとエンターテインメントのための場所に墓地もあるというわけです。とても不思議な感覚を覚えました。
劇場の背後にある山の頂上にはアクロポリスがあるということでしたが、時間が取れず次回の楽しみということにしました。
使徒たちの活動27:5-6に出てくる都市です。確かに海が近いので、記述通りの寄港地と言えそうです。おそらく堆積によって海岸線はずいぶん変わってしまっているのでしょう。
次いで、アンディアケという隣接する古代の港町にも行きました。途中ヒッチハイクの人たちをピックアップして、少しの距離ですが乗せてあげました。いまはスマホで会話を翻訳できるので便利です。学生だと言っていました。
その後、車で10分ほどでしょうか。緩やかな谷の裾にアンディアケがありました。時間が遅く、あまり長く留まれませんでした。でも街の構造はしっかり残っており、復元されたものも含めて、街の雰囲気をそのまま体感できるような場所でした。
そしてとにかく夕焼けが美しかった。
歴史 (Wikipedia 英語版から抄訳)
古くは紀元前168年から紀元43年のリュキア同盟 (Lycian league) の一都市として記述があり、ストラボン (Strabo) によれば同盟諸都市の中でも最大級の規模であった。都市の外壁の年代計算から紀元前5世紀に遡ることができるとする学者もいる。
ギリシャ人住民は、都市の守護女神としてアルテミス・エレウテリア (Artemis Eleutheria) を崇拝していた。ゼウス (Zeus)、アテナ (Athena)、テュケー (Tyche) も同様に崇められていた。大プリニウス (Pliny the Elder) によれば、ミュラにはアポロ (Apollo) の泉であるクリウム (Curium) があり、管楽器によって三度召喚されると魚が現れ神託を与えたとしている。
ローマ時代には、クリスチャンを擁したコイネーギリシャ語 (Koine Greek) 圏の一部となった。
リュキアおよびローマ時代の遺跡は大部分が沖積泥で覆われている。アクロポリス (Acropolis) はデムレ高原 (Demre-plateau) にあり、ローマ式劇場およびローマ式浴場が部分的に発掘されている。半円劇場は紀元141年の地震によって破壊されたがのちに再建された。
入り口を神殿のような形にしてミュラの直立した岩をくりぬいたリュキア時代の墓穴群があり、2つのネクロポリス (Necropoleis) を構成している。川のネクロポリスと、海のネクロポリスがある。海のネクロポリスは劇場の北西に面している。川のネクロポリスで最も知られているのはデムレ川 (Demre Cayi) を劇場から1.5kmさかのぼった「ライオンの墓 (Lion's tomb)」、別名「彩色墓 (Painted Tomb)」である。旅行家で考古学者のチャールズ・フェローズ (Charles Fellows) は著書リュキア紀行 (An account of discoveries in Lycia) で、当時まだ彩色が残っていた時代のスケッチを残している。
古代ミュラの港はアンドリアケ (Andriake) であったが、のちに堆積物によって埋まってしまっている。紀元131年にハドリアヌス帝 (Hadrian) が訪れており、その際に建立された主要な建築物として穀物庫が現在まで残っている。近辺ではアッキガイ科の貝が大量に発見されており、アンドリアケで貝紫染めの生産がされていたことを示している。