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学習に積極的に関わるということ

Updated: 5/14/2022 Original: 7/9/2020

Study

確かに何かを学ぶためには、覚えるフェーズ、暗記するフェーズも非常に重要です。たしかに暗記は辛いので、そこでストップしてしまうことがあります。でも、それだけではもったいないわけです。ある程度の「ブロック」を頭の中に準備できたら、次はそれを組み立てるという楽しみに移っていかなければ元が取れません。

「ブロック」を組み立てていくと、得体の知れないものが出来上がることがあります。得体が知れないので、周りにはほとんど理解されないです。でも、出来上がってしまった以上、しっかり理論的に正しく組み立てられたものであれば、正しい通念として受け入れられます。

次の記事を読んで、ポンと膝を打ってしまいました。

名探偵の推理こそ「論理的にものを考える」プロセスの模範だと思いますけれど、ここには「正解」を知っていて「作問」している人はいません。登場人物が現場に残された断片から推理して、その帰結として正解を「発見」するんです。名探偵の行う推理というのは、ひとつひとつの間に関連性が見出しがたい断片的事実を並べて、それらの断片のすべてを説明できる一つの仮説を構築することです。その仮説がどれほど非常識であっても、信じがたい話であっても、「すべてを説明できる仮説はこれしかない」と確信すると名探偵は「これが真実だ」と断言する。それは「論理」というよりむしろ「論理の飛躍」なんです。

それは実際に学術的な知性がやっていることと同じです。カール・マルクスや、マックス・ウェーバーや、ジーグムント・フロイトはいずれもすばらしい知的達成をなしとげて人類の知的進歩に貢献したわけですけれど、彼らに共通するのは常人では真似のできないような「論理の飛躍」をしたことです。目の前に散乱している断片的な事実をすべて整合的に説明できる仮説は「これしかない」という推理に基づいて前代未聞のアイディアを提示してみせた。「階級闘争」も「資本主義の精神」も「強迫反復」もいずれも「論理の飛躍」の産物です。同じ断片を見せられて、誰もが同じ仮説にたどりつく訳じゃない。凡庸な知性においては、常識や思い込みが論理の飛躍を妨害するからです。

例外的知者の例外的である所以はその跳躍力なんです。彼らの論理的思考というのは、いわばこの跳躍のための助走なんです。こうであるならこうなる、こうであるならこうなる・・・と論理的に思考することによって、思考の速度を上げているんです。そして、ある速度に達したところで、飛行機が離陸するように、地面を離れて跳躍する。そうやって、ただこつこつと理屈をこねている限りは絶対に到達できないような高みに飛び上がることができる。

「論理的にものを考える」というのはこの驚嘆すべきジャンプにおける「助走」に相当するものだと僕は思います。そこで加速して、踏切線で「常識の限界」を飛び越えて、日常的論理ではたどりつけないところに達する。

論理は跳躍する - 内田樹の研究室

せめぎ合いであることは確かです。結論を導くまでの間、この「飛躍」は「ただの思い込みではないか」という不安と戦わなければなりません。少なくとも周りにはわかってもらえないことが多いです。さらに、妄想や不確実な短絡がないかどうか、根気強く時間をかけて検証していかなければいけません。

しかしながら、それらを経て論理的に間違い無いという結論に一度至ったのであれば、たとえそれが納得できるような通念ではなかったとしても、それが新たな常識になるわけです。

具体的な例として、量子力学について調べていた時に見つけた文も引用します。この分野はその感覚そのものをいく分野ではないかと思いますね。

量子力学には、我々素人には理解が困難な部分がいろいろある。量子力学の世界は、我々の日常的な感覚世界とは相当ちがった部分がある。不確定性原理とか、光の波動生と粒子性の重なりとか、二重スリットの問題とか、シュレディンガーの猫の問題とか、常人の常識では理解しがたい話がいろいろ出てくる。そのあたりの前から疑問に思っていたことを、時間があるのを幸い次から次に質問していったのである。そういう問題について、教科書的な解説書を読めば、それなりにわかったような気にさせられることもあるが、やはり我々常識人にはどうにも訳がわからない部分が残る。ストンと腑に落ちてこないというか、実感的納得が得られない部分がある。その辺プロの物理学者の頭の中ではどうなっているのだろうと思って、理論の教科書的な解説ではなく、実感のほうをたずねてみたのである。すると驚いたことには、

「あー、その辺のところはね、実をいうと、我々にしても、完全に納得できていない部分があるんです。実感としてはわからないが、理論の道筋を追っていくと、それはそういうものとして受け入れざるをえないということで、実感と切り離して受け入れている部分というのがあるんです」

と率直に語ってくれた。それを聞いてはじめて私は量子力学というものがわかったような気がした。それまで実感的理解が得られないのは自分の頭が悪いせいだと思い込んで、なんとか実感的理解を得ようと思って七転八倒していたのだが、この戸塚さんの一言でまるでつき物が落ちたように、量子力学の理解の困難にまつわる不快感が消えたのである。

がんと闘った科学者の記録ー戸塚洋二著、立花隆編文藝春秋42ページ

量子力学のような全人類の生活に関わるような新たな公式、とまではいかないかもしれません。でも、この感覚を個人レベルで鍛え続ければ、規模は小さいにしろ自身の生き方を支える確実なパーツを日々発見し、新たな常識として自身の行動の自信を日々加え続けることができます。

収集可能な情報は全て取り入れる積極性が必要です。ギャップを埋めるための確実な土台となる「ブロック」を、粘り強く一個一個探していく必要があります。それは言葉では説明できない体験かも知れませんし、自分だけに確実な感覚かも知れません。そして、蓄えてきた知識もそうです。

知識については多岐であれば多岐であるほど良いです。思いもよらなかったところで役に立つ「ブロック」が、全く無関係と思えた分野から出てくることが多々あるからです。考え方に微調整が必要になる場面にも直面しますが、それはむしろ喜ばしいことです。

残念ながら、「信じられない」「そんなこと聞いたことがない」とストップしてしまうのではこのゾクゾクするような疾走感を経験することができません。

自分は子ども時分から立ち止まってしまう傾向が強いので、この感覚は日々柔らかくし、しなやかに保たねばならないと自戒の毎日なわけです。

今日言いたいのはそんなところです。