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ピシディアのアンティオキアの歴史

Updated: 5/14/2022 Original: 12/16/2019

ピシディアのアンティオキア

ヒエラポリスからピシディアのアンティオキアまでの道中、とても美しいトルコの地形をいくつも見ることができました。特にエーリディル湖 (Eğirdir Gölü) では、今までお目にかかったことのないような絶景の湖岸を楽しむことができました。

エーリディル湖

見学時間ギリギリすべりこみで間に合ったので、せわしなく写真を撮るだけしかできなかったのが残念です。ゆるい丘の斜面に町が構成されており、劇場跡から遠く見える別の丘にはローマ時代のものと思われる水道橋が見えました。

そういえば、同じように滑り込みで到着し、同じように急ぎ足で見学をしていたアジア人の女性(見た目に日本人だったのですが)がいました。しかも一人で。こんなマイナーなところに来るとはおつですね。

ピシディアのアンティオキア

ちなみにその水道橋、帰りに寄ってみようと思ったのですが道が工事中で通行止めとなっており近づくことができなかったのは残念でした。そのかわり、工事現場の近くでのんびり草をはむ羊の群れを見ることができたのでした。

ピシディアのアンティオキア

アンティオキアの歴史 (英語版Wikipediaから抄訳)

先史

伝承では、紀元前3世紀にヘレニズム期の王国 (Hellenistic kingdoms) の1つであるセレウコス朝 (Seleucid Dynasty) によって建設された。とはいえ、湖水地方およびピシディア (Pisidia) の歴史と切り離すことはできない。それらの地方の調査によれば、旧石器時代 (Paleolithic) からの住居跡が見られる。

1924年のミシガン大学のロビンソン (D.M. Robinson) のヤルヴァチ (Yalvaç) 周辺の発掘調査によって周辺の小山から出土した遺物は紀元前3千年紀までさかのぼる。

初期ヒッタイト (Proto-Hittite)、ヒッタイト (Hittite)、フリギュア (Phrygian) もしくはリュディア (Lydian) 文明のものからアンティオキア (Antioch) に関係するものは発見されていないが、ヒッタイトの記録の中でこの地方がアルザワ (Arzawa) と呼ばれ、独立した地域社会が繁栄していたことが知られている。これらの人々はヒッタイト下にあったわけではなかったものの、カデシュの戦い (Battle of Kadesh) においてエジプト人 (Egyptians) に対抗して共に戦った。

ピシディアのアンティオキア

その戦略的な立地条件から、この周辺の住民は長きにわたってピシディアの中で独立を保つことができた。紀元前6世紀にアナトリア (Anatolia) を征服し、総督管轄領 (Satrapy) に分断して統治しようとしたペルシャ人 (Persians) でさえ、常に起こる反乱や騒動に対処できなかった。

幾人かの学者によって唱えられているメン・アスカエノス (Men Askaenos) 崇拝とフリギュアの母神キュベレ (Cybele) の関連はいまだ議論の的である。キュベレ崇拝はアンティオキアにおいても痕跡があるが、フリギュア人の影響によるものではない。母神の着想は旧石器時代にまで遡ることができ、ヤルヴァチ美術館 (Yalvaç Museum) に像や小立像が展示されている。

ピシディアのアンティオキア

ヘレニズム時代 (Hellenistic age)

アレクサンダー大王 (Alexander the Great) の死後、セレウコス朝を創始したセレウコス1世ニカトール (Seleucus I Nicator) がピシディアを統治した。攻略された場所はヘレニズム化され、通常はアクロポリス (acropolis) の上などの防御の面から戦略的に重要な場所に、要塞化された都市が建設された。セレウコス1世は60近くの都市を建設し、父アンティオコス (Antiochos) にちなんだ名を16の都市に付した。ピシディアのアンティオキアにはマグネシア (Magnesia on the Maeander) からの人々が入植した。

アナトリア配分の争いはヨーロッパからのガラテア人 (Galatians) によってさらに複雑化した。私利的であったヘレニズム諸朝はガラテア人を内部から排除することができなかったが、アンティオコス1世ソテル (Antiochus I Soter) は紀元前270年にトロス山脈 (Taurus Mountains) の戦いで象部隊を含む軍によってガラテア人を破った。それまでガラテア人は象を見たことがなかった。歴史家ルキアノス (Lucian) は「我らの自由を16頭の象に負うとは甚だ恥ずべきことである」とのアンティオコスの言葉を残している。とはいえアンティオコスはこの勝利を祝い、シリアに帰還した際にはソテル、すなわち「救世主」という意味の敬称を授かった。

アンティオキアは、ピシディアとフリギュアの境界線上に位置することからガラテア人の攻撃を抑えるための軍事基地としてアンティオコス1世が建設したとする説明が最も妥当であろう。アンティオキア建設は紀元前3世紀の第4四半期を示しているが、考古学者は北東部に紀元前4世紀にさかのぼれるメン・アスカエノスの神殿を発見している。このことから、早い段階から古典的文明が周辺に存在していたことが伺われる。

ピシディアのアンティオキア

ローマ時代 (Roman Period)

アレクサンダー大王の後継であるヘレニズム諸朝が互いに、またガラテア人と戦っているさなか、ローマがヨーロッパにおける強国として台頭し東部拡大を進め始めていた。ローマ人はマケドニア (Macedon)、トラキア (Thrace)、およびダーダネルス (Dardanelles) を征服し、マグネシアとピシディアを経由してフリギュアにまで達していた。ローマ人はガラテア人を武力によって脅し、紀元前188年にアパメイア (Apamea) で締結された和約によれば、アンティオコス3世 (Anthiochos III) からピシディアを奪った後、同盟国でありその地域において優勢であったペルガモン王国 (the Kingdom of Pergamon) に統治権が譲渡された。ペルガモンの最後の王アッタロス3世 (Attalos III) はその死に伴い紀元前133年に王国をローマに譲渡した。直後にペルガモン王を宣言したアリストニコス (Aristonikos) は紀元前129年に破られ、ローマに併合させられた。ローマはよく発展し創造的な文化を西部アナトリアに入り込ませ、それは世紀を超えて存続することとなった。

アナトリアはローマ帝国 (Roman Empire) のアジア属州 (the province of Asia) として統治されたものの、ピシディアはローマの同盟国であるカパドキア王国 (the Kingdom of Cappadocia) 統治下に入った。続く年月の間、中央から離れたこれらの王国間では権力の不一致が継続し、特にキリキア (Cilicia) やピシディアなどの強力な海賊王国が登場した。ローマはこれらの国々に悩まされながらも、戦いによって紀元前102年にはキリキア、パンフリア (Pamphylia)、フリギュアおよびピシディアを略奪者から自由にし、ローマによる支配が回復された。

ピシディアのアンティオキア

この地方の地理的、戦略的立地条件はこの地方の統制や恒常的平和を難しいものとした。ホモナデシア人 (Homonadesians) がアタリヤ (Attaleia) からイコニオム (Ikonion) までのトロス山脈に定住しており、ローマ人を悩ませるものとなった。ピシディアとパンフリアをつなぐ道路を統制していたマルクス・アントニウス (Mark Antony) は、同盟国であるピシディアの王アミンタス (Amyntas) にホモナデシア人征服の任を課したが、アミンタスがその戦いで殺される結果となった。

これを受けてローマは、現地で任命された能力のない総督の代わりに退役軍人を任命し、入植の指揮を始めた。属州ガラテア (the province of Galatia) が紀元前25年に設置され、アンティオキアもその下に入った。ホモナデシア人との戦いにおいて兵站を支援するため、ガラテア州の総督であるコルヌトゥス・アルトゥティウス・アクイラ (Cornutus Artutius Aquila) はアンティオキアを中間地点に持つ皇帝街道 (the Via Sebaste) と呼ばれる街道を建設した。皇帝街道はホモナデシア人を囲むようにして南東と南西の二手に分かれ、続いて建設された連絡街道はその2つの道をつないだ。紀元前3年、この皇帝街道によりプブリウス・スルピキウス・クィリニウス (Publius Sulpicius Quirinius) はホモナデシア人問題に終止符を打ち、生き残ったものたちは周辺地域に移住させられた。

ピシディアのアンティオキア

アウグスツス (Augustus) の統治中、おそらく戦略的立地条件による理由から、ピシディア内の8つの入植地の中で唯一アンティオキアのみがカエサレア (Caesarea) を名乗ることを許され、イタリア権 (Ius Italicum) を与えられた。都市はローマ入植地の中でも重要な位置を占めるようになり、コロニア・カエサレア (Colonia Caesarea) の名前を冠する首都となった。

ローマ時代においてヘレニズム化 (Hellenization) はラテン化 (Latinization) に取って代わり、アンティオキアにおいては特に首尾よく運んだ。都市は、ローマが7つの丘によって識別されたように、都市の7つの丘に基づいたウィクス (vici) と呼ばれる7つの区画に分割された。3世紀末まで都市の公用語はラテン語 (Latin) であった。豊穣とアウグスツスによる平和 (パックス・ロマーナ) は、入植者としての退役軍人にとって現地民との間に良い関係を築く面で有利に働いた。

皇帝アウグスツスの業績を記録した「神君アウグスツスの業績録」(Res Gestae Divi Augusti) の現存する3つのうちの1つがアンティオキアの皇帝神殿 (Augusteum) 前から発見された。原本は飾りがなされた青銅製の刻板によるものでローマのアウグスツス廟 (Mausoleum of Augustus) に展示されていたが、現在まで失われている。アンティオキアの複製版は石板にラテン語で刻まれており、アジアにおけるローマの軍事および文化拠点としての都市の重要性を示している。複製版の一方は、ギリシャ語とラテン語で記されておりアンカラ (Ankara) に保存されている。もう一方はギリシャ語で書かれており、ウルボル (Uluborlu) のアポロニア (Apollonia) に保存されている。

ピシディアのアンティオキア

資料

Antioch of Pisidia as of 7/25/2021