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ヒエラポリスの歴史

Updated: 5/14/2022 Original: 12/16/2019

ヒエラポリス

パムッカレと呼ばれる石灰華段丘が有名ですが、段丘の上方にはヒエラポリスというローマ都市もありました。劇場後、アポロン神殿、墓地群あたりが興味深いですね。

温泉地であることに関係があると思いますが、地面から有毒ガスの噴出している「プルトンの穴」という場所があります。2019年現在では立ち入りができなくなっていましたが、当時も宗教的な目的で使われていたといいます。

聖書中でもコロサイ人への手紙4:13に記述のある都市です。車で移動するとコロサイ・ヒエラポリス間は約30分くらいですから、隣町といってもいいような距離感だったのかもしれません。ヒエラポリスからは渓谷を挟んで向かい側の高い山々を彼方に望むことができましたが、その裾野にコロサイが位置しているという関係になります。渓谷の中央部にある小高い台地にはラオデキアがありました。

Hierapolis

歴史 (英語版 Wikipedia より抄訳)

古代

この都市の起源について知られていることはあまり多くない。ヒッタイト人 (Hittites) やペルシャ人 (Persians) の居住の記録なども発見されていない。フリギュア人 (Phrygians) が紀元前7世紀前半ごろに神殿を建てている。建立当時は近隣の都市ラオデキア (Laodicea) の住民が利用していたが、のちにヒエラポリスの中心となった。

紀元前2世紀の初期にセレウコス朝 (Seleucid Empire) 領の温泉療養地として始まった。アンティオコス3世 (Antiochus the Great) が2000のユダヤ人家族をバビロン (Babylon) およびメソポタミア (Mesopotamia) からリュディア (Lydia) およびフリギュア (Phrygia) に移住させており、のちにユダヤ地方 (Judea) からの住民も加わった。ヒエラポリスでもユダヤ人のコミュニティー (Congregation) が増加し、紀元前62年にはユダヤ人人口が5万に達したとも言われている。

Hierapolis

ローマ (Roma) と同盟関係にあったエウメネス2世 (Eumenes II) との戦いでアンティオコス3世が破れた紀元前190年のマグネシアの戦い (Battle of Magnesia) の戦利品を受けて、都市はさらに拡大した。ローマ・シリア戦争 (Syrian War) の終結となるアパメイアの和約 (Treaty of Apamea) ののち、エウメネス2世はヒエラポリスを含む小アジアの大部分を併合した。

Hierapolis

ヒエラポリスは医学者たちが地熱温泉を患者の治療に用いる療養の中心地となった。紀元前2世紀にはブロンズ貨幣の鋳造を開始し、ヒエロポリス (Hieropolis) の名を冠した。この名が元々の神殿を指すものか、それともヘラクレス (Heracles) とアウゲー (Auge) の息子テーレポス (Telephus) の妻で、ペルガモン (Pergamon) のアッタロス朝 (Attalid dynasty) の祖とされるヒエラ (Hiera) を祀ったものであるかは定かではない。地理学者であるビザンティウムのステファヌス (Stephanus of Byzantium) が記した神殿群の記述によれば、この名がのちに『聖なる都市』を意味するヒエラポリスに変わったという。

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ローマ期

紀元前133年にアッタロス3世 (Attalus III) が死ぬと王国はローマに譲渡された。こうしてヒエラポリスはアジア属州 (Province of Asia) の一部となった。紀元17年、ティベリウス (Tiberius) の統治中、地震によって都市は破壊された。

使徒パウロのエフェソスにおける活動により、クリスチャンの影響はヒエラポリスにも波及した。

ネロ (Nero) 統治中の紀元60年、さらに大きな地震に見舞われ都市は完全に壊滅した。のちに帝国の財政面での支援により、都市はローマ様式で再建された。現在残っている遺跡はこの時代からのものである。劇場はハドリアヌス帝 (Hadrian) の訪問に合わせて紀元129年に建築され、のちにセプティミウス・セウェルス (Septimius Severus) によって改築された。紀元215年カラカラ帝 (Caracalla) が都市を訪れた際に熱望の的であったネオコロス (neocoros) としての資格を授けられ、かなりの特権と聖域管理権を享受した。これがヒエラポリスの最盛期となり、多くの人々が温泉医療を受けるため都市を訪れた。新たな建築プロジェクトも開始され、2つのローマ式浴場、ギュムナシオン (Gymnasium)、いくつかの神殿、柱廊 (colonnade) を備えた通り、そして温泉汲み上げ施設などが建設された。ヒエラポリスは芸術、哲学および商業の分野でローマ帝国の中でも重要な都市となった。都市人口は10万人におよび、経済的にも栄えた。紀元370年に、ササン朝 (Sassanid) の王シャープール2世 (Shapur II) との戦いのためウァレンス帝 (Valens) が訪れたのが、皇帝による訪問の最後となった。

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