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エフェソスの歴史

Updated: 5/14/2022 Original: 3/9/2018

エフェソス

都市そのものが遺跡となっておりまして、やはり眼を見張るものがありました。2 つの山の間に位置していて、谷間に沿って作られた大理石の舗装道路を歩きながら栄華を偲ぶことができました。

神殿群、各所のアゴラ、商店街、図書館、浴場、公衆便所、運動場、議会のために使われた集会場そして劇場まで、都市生活に必要なインフラを全て見学することができます。

2019 年に訪れた時には閉館時間までいたので、劇場からかなたに沈む夕日をゆっくりと眺めることができました。眼下に続く大通りで遥か昔にどんな風景が見られたか、たっぷり想像を広げることができました。

歴史上重要な都市ですから辿ってみる様々に関連した出来事を知ることができ、知識欲をくすぐる場所と言えそうです。

歴史 (英語版 Wikipedia その他より抄訳)

新石器時代

アルバルヤ (Arvalya) およびジュクリジ (Cukurici) 遺丘 (tells) の発掘から、エフェソス周辺の地域にはすでに新石器時代 (Neolithic age) に居住の跡が見られる。

青銅器時代

アヤスルクの丘 (Ayasuluk Hill) の発掘により、青銅器時代 (Bronze Age) 初期の定住跡が見つかっている。ヒッタイト (Hittite) の記録によれば、西部および南部アナトリア (Anatolia) ・小アジア (Asia Minor) の独立した国であったアルザワ王国 (Arzawa Kingdom) の首都がアパサ (Apasa) またはアバサ (Abasa) とされており、一部の学者はこれがのちのギリシャ時代のエフェソスではないかと指摘している。1954 年に、聖ヨハネ聖堂 (the basilica of St. John) 近くにある、ミケーネ時代 (Mycenaean era, 紀元前 1500−1400 年) のものである埋葬地から陶片が発掘された。ホメロス (Homer) が呼ぶところのアカイオイ (Achaioi) が紀元前 14 世紀および 13 世紀に小アジアに定住したとされる、ミケーネ発展の時代に重なる。

Ephesus

ギリシャ人移住の時代

エフェソスは、紀元前 10 世紀にアッティカ・​ イオニア (Attic-Ionian) の植民地として、古代エフェソスの中心地から 3 キロ離れた現在のアヤスルクの丘に据えられた。古代エフェソスの場所は、1990 年代に行われたセルジューク (Seljuk) 時代の城の発掘によって明らかになっている。伝説によればこの都市の礎を据えたのはアテニア人 (Athens) の王子アンドロクロス (Androklos) で、父にあたるコドロス (Kodros) の死をきっかけに国を追われて行き着いたとされる。魚とイノシシ (boar) が導くであろうというデルポイ (Delphi) の神託が成就した場所であった。アンドロクロスは先住していたカリア人 (Carian) およびレレゲス人 (Lelegian) のほとんどを都市から去らせ、自分が率いている民と残った民がともに住むようにした。成功した戦士でもあり、王としてイオニア (Ionia) の 12 の都市を束ねてイオニア同盟 (Ionian League) を形成した。アンドロクロスの治世中、都市は繁栄した。イオニア同盟の 1 つであるプリエネ (Priene) を支援するためのカリア人 (Carians) との戦いの間に戦死した。アンドロクロスと彼が飼っていた犬が、紀元 2 世紀に建てられたハドリアヌス神殿 (Hadrian temple) の上部の彫刻 (frieze) に示されている。のちに、ギリシャの歴史家パウサニアス (Pausanias)、ストラボン (Strabo) およびヘロドトス (Herodotos)、また詩人のカリノス (Kallinos) はこの都市の神話的な始まりを、アマゾーン (Amazons) の女王エフォス (Ephos) によるとした。

ギリシャの女神であるアルテミス (Artemis) とアナトリアの女神キュベレ (Kybele) がエフェソスのアルテミス (Artemis of Ephesus) として同一視された。アルテミスと同一視されている多くの乳房を持つエフェソスの女神 (Lady of Ephesus) が、アルテミス神殿 (Temple of Artemis) で崇められていた。パウサニアスによればアルテミス神殿は古代世界で最大規模の建造物で、世界七不思議 (Seven wonders of the world) に数えられる。パウサニアスは、川の神カユストロス (Caystrus) の末裔であるエフェソス人がイオニア人の移住前にこの神殿を建立したとしている。現在構造物としては土台が残るのみである。

古代の記録によるとこの場所のさらに古い名前はアロペ (Alope) としているものもある。

Ephesus

アルカイック期 (Archaic Period)

紀元前 650 年ごろ、アルテミス神殿を含むエフェソスはキンメリア人 (Cimmerians) による破壊を受けた。キンメリア人が去ったのち、僭王たち (Tyrants) によって治められた。人々の反乱を受け、のちに議会制に移行した。都市は再び栄え、エレゲイア詩人 (Elegiac Poet) カリノスやイアンボス詩人 (Iambic poet) ヒッポナクス (Hipponax)、哲学者ヘラクレイトス (Heraclitus)、画家パラシオス (Parrhasius)、文法家 (Grammarian) ゼノドトス (Zenodotus) や医師ソラノス (Soranus) とルフス (Rufus) などの著名人を輩出した。

紀元前 560 年ごろ、リュディア (Lydian) 王クロイソス (Croesus) に征服された。クロイソスは手厳しい支配者であったが住民を丁重に扱い、アルテミス神殿の主な支援者ともなった。クロイソスの署名が神殿の柱の基部から発見され、現在大英博物館 (British Museum) に展示されている。クロイソスはエフェソス周辺の村落をアルテミス神殿の近辺に集住 (synoikismos) させ、都市を拡大させた。

のちにクロイソス下のリュディアはペルシャ (Persia) に侵入した。イオニア人はキュロス大王 (Cyrus the Great) の和平提示を拒否しリュディア側についた。ペルシャがクロイソスを破るとイオニア人は和平を申し出たが、キュロスは降伏を要求しペルシャ帝国の一部となるよう求めた。紀元前 547 年、イオニア人はハルパゴス (Harpagos) が指揮するペルシャ軍に敗れた。ペルシャは小アジア (Asia Minor) にあるギリシャの諸都市をアケメネス朝 (Achaemenid Empire) に組み込んだ。これらの都市はのちに総督 (Satraps) によって統治されることになった。

アルカイック朝の居住場所はまだ明らかにはなっていない。いくつかの場所から青銅器時代からローマ時代の間の移動の形跡を見ることができるが、天然港の沖積泥およびカイステル川 (Kayster River) の形状変化のため一箇所に留まることはなかった。

Ephesus

古典期 (Classical Period)

エフェソスは引き続き繁栄したが、カンビュセス 2 世 (Cambyses II) およびダリウス (Darius) 下での増税を受けるに及んでイオニアの反乱 (Ionian Revolt) に加わり、紀元前 498 年のエフェソスの戦い (Battle of Ephesus) においてペルシャと対峙した。この戦いがペルシャ戦争 (Greco-Persian War) の先駆けとなった。紀元前 479 年、イオニア人はアテナイ人とともにペルシャ人を小アジアの沿岸から追放した。ペルシャに対抗するため、紀元前 478 年イオニア人の諸都市はアテネとともにデロス同盟 (Delian League) に入った。エフェソスは兵船の提供はしなかったものの、経済的な支援を行なった。

ペロポネソス戦争 (Peloponnesian War) においてエフェソスははじめアテナイ側についたが、最終段階のデシリア戦争 (Decelean War) もしくはイオニア戦争 (Ionian War) と呼ばれる戦争においては、ペルシャの支援を受けたスパルタ (Sparta) 側についた。結果としてイオニアの諸都市の支配権は再びペルシャのものになった。

これらの戦争は、エフェソスの日常生活にさほど大きな影響を与えなかった。エフェソスは外国人の融合を許しており教育が重んじられていた。のちに大プリニウス (Pliny the Elder) はエフェソスで、アテネの画家の娘であるタマリス (Timarete) が描いた女神ディアーナ (Diana) の絵画を見たと述べている。

紀元前 356 年、伝承によればヘロストラトス (Herostratus) によってアルテミス神殿は焼失した。エフェソスの住民は直ちに神殿の再建にかかり、元来より大きく荘厳なものとした。

Ephesus

ヘレニズム期 (Hellenistic Period)

アレクサンダー大王 (Alexander the Great) は紀元前 334 年にグラニコス川の戦い (Battle of the Granicus) においてペルシャ軍を敗退させ、小アジアのギリシャ都市はペルシャの支配から解放された。ペルシャ総督であったスルパクス (Syrpax) とその家族は石打により処刑され、エフェソスは勝者としてのアレクサンダーを熱烈に歓迎した。アレクサンダーはアルテミス神殿がまだ完成ないのを目にして金銭面の援助を申し出、彼自身の名も刻印されることを提案した。これに対しエフェソスの住民は一人の神が他の神のために神殿を立てるのはふさわしくないと抗弁した。紀元 323 年のアレクサンダーの死後、アレクサンダーの将軍の一人リュシマコス (Lysimachus) の統治下に入った。

カイステル川の堆積物が港を埋めていくにしたがい、形成された沼がマラリアの原因となり居住民の多くが死んだ。リュシマコスは旧市街の下水をとめて洪水を起こさせ、アルテミス神殿の周囲にあった居住地区の住民を 2 キロ離れた場所に強制的に移動させた。新たな居住地区は、王の第二妻アルシノエ 2 世 (Arsinoe II of Egypt) にちなんでアルシノエ (Arsinoea, Arsinoe) と呼ばれた。レベドス (Lebedus) およびコロフォン (Colophon) が滅ぼされると、リュシマコスはそこの住民もこの新しい都市に移住させた。

裏切りによるアガトクレス (Agathocles) の死をうけてエフェソスは反乱を起こし、結果としてシリア (Syria) およびメソポタミア (Mesopotamia) の王セレウコス 1 世ニカトール (Seleucus I Nicator) が紀元前 281 年にコルペディオンの戦い (Battle of Corupedium) にてリュシマコスを死に至らせることになった。リュシマコスの死後、都市の名前は再びエフェソスとされた。

エフェソスはセレウコス朝 (Seleucid Empire) の都市の 1 つとなった。アンティオコス 2 世 (Antiochus II Theos) とそのエジプト人 (Egyptian) の妻が暗殺されるとプトレマイオス 3 世 (Ptolemy III) はセレウコスに侵攻し、エジプト艦隊が小アジアの沿岸部を制圧した。エフェソスは紀元前 263 年から 197 年までエジプト配下となった。

セレウコスの王アンティオコス 3 世 (Antiochus III the Great) は小アジアのギリシャ諸都市に対する支配を回復しようとし紀元前 196 年にエフェソスを攻略したが、やがてローマ (Rome) との衝突に直面するようになった。いくつかの戦いを経て、アンティオコス 3 世は紀元前 190 年にマグネシアの戦い (Battle of Magnesia) でスキピオ・アシアティクス (Scipio Asiaticus) に敗れた。続くアパメイアの和約 (Treaty of Apamea) により、エフェソスはペルガモン (Pergamon) のエウメネス 2 世 (Eumenes II) の統治下に置かれた。紀元前 133 年、エウメネス 2 世の孫であるアッタロス 3 世 (Attalus III) は後継を残さずに死んだので、彼の王国の諸都市は自治権を保証されるという条件付きでローマ (Roman Republic) に譲渡された。

Ephesus

ローマ期

エウメネス 3 世 (Eumenes III) の反乱が鎮圧されると、紀元前 129 年に ペルガモン王国の一部であったエフェソスはローマの管轄とされた。

都市は急速にローマの影響を受け、税率は急上昇し、都市の財産は組織的に徴取された。そのため、エフェソスは小アジアを征服したポントス (Pontus) の王ミトリダテス 6 世 (Mithridates VI Eupator) の将軍アルケラオス (Archelaus) の紀元前 88 年の入場を歓迎した。ミトリダテスは小アジア内にいる全てのローマ市民 (Roman citizens) を殺害するようエフェソスから指示を出し、小アジア内に居住するローマ市民とラテン語 (Latin) の訛りがあった 8 万の人々が殺害されたアジアの晩禱 (Asiatic Vespers) に至った。多くがエフェソスに住んでおり、市内にあったローマ市民の像や記念碑なども破壊された。しかしミトリダテス王の将軍の一人であるゼノビウス (Zenobius) がヒオス島 (Chios) において行った劣悪な所業を知り、人々はポントス軍に加わろうとしなかった。ゼノビウスがミトリダテス王の妻モミネ (Momine) の父でありエフェソスを監督していたフィロポイメン (Philopoemen) を訪れた時、エフェソス人はゼノビウスを捉え殺害した。その報復としてミトリダテスは厳罰を課したが、ギリシャ諸都市は自由を与えられかなりの権利を回復した。エフェソスは短い間ではあるが自治を認められた。ミトリダテスが第一次ミトリダテス戦争 (First Mithridatic War) にてルキウス・コルネリウス・スッラ (Lucius Cornelius Sulla) に敗北したのち、紀元前 86 年にエフェソスは再びローマの統治下に入った。スッラは 5 年分の追徴課税を含む莫大な賠償要求を課し、これがアジア諸都市を長期にわたって苦しめることとなった。

紀元前 57 年にはエジプトの王プトレマイオス 12 世 (Ptolemy XII Auletes) が隠遁のためエフェソスに逃れた。ローマ元老院は彼を王座に戻そうとしたものの、アルテミス神殿の聖域に退避したので成功しなかった。

マルクス・アントニウス (Mark Antony) は地方総督 (Proconsul) であった間、および紀元前 33 年にアウグスツス (Augustus) とのアクティウムの海戦 (Battle of Actium) に備え 800 の艦隊とクレオパトラ (Cleopatra) とともに訪れた際、エフェソスで歓迎されている。

紀元前 27 年アウグツスが皇帝になった時、ペルガモンに代わりエフェソスがアジア属州 (Proconsular Asia) の首都となるという重要な変化があった。エフェソスは再び繁栄の時期に入り、総督の座と商業の中心地の立場を得た。ストラボンによれば、規模と重要性においてローマに次ぐ都市となったという。

都市と神殿は紀元 263 年のゴート族 (Goths) 侵入により破壊され、都市の衰退が始まった。のちにコンスタンティヌス 1 世 (Constantine the Great) が都市の大部分を再建し公衆浴場を新築した。

資料