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ラオデキアの背景

Updated: 5/14/2022 Original: 3/10/2018

ラオデキア

おそらく発掘作業が今まさに進行しているのだと思います。十数年前に訪れたという友人に聞いたところ、そのころはただのうっそうとした野原で都市の跡という印象がないとのことでした。これからまだまだ興味深い展示がされていきそうな雰囲気がありました。

そのせいか、エフェソスや、遠くに望むパムッカレなどに比べてあまり観光客が多くはありませんでした。敷地面積がかなり広く、劇場跡が2つもあります。

これほどの規模とは思わなかったので時間の計算を間違えてしまいましたが、次回訪れる際はゆっくりしたい場所の1つですね。

Laodicea

(さて、いつものようにWikipediaの英語版を訳したのですが、純粋な時系列の歴史という感じではありませんでした。都市の成り立ち、背景に重きを置いているような記事といったらいいでしょうか。さらに何か良い歴史の資料があったら改めて訳していきたいと思います)

概要 (英語版 Wikipedia より抄訳)

ラオデキアはリュクス (Lycus) にそそぐアソプス (Asopus) 川とカプルス (Caprus) 川による渓谷に挟まれた山の支脈上に位置する。当初はゼウスの都市 (City of Zeus) を意味するディオスポリス (Diospolis) と呼ばれており、のちにロダス (Rhodas) とも呼ばれた。紀元前261-253年に妻ラオディケ (Laodice) のためにアンティオコス2世 (Antiochus II Theos) が建てたといわれているラオディシア (Laodicea) という建築物がこの都市に据えられた。コロサイ (Colossae) からは西に約17キロメートル、ヒエラポリスからは南に約10キロメートルの場所に位置する。エフェソス (Ephesus) からは東に約160キロメートル離れていたとされており、ストラボン (Strabo) によれば街道沿いの都市だった。フリギュア (Phrygia) 地方の都市だったが近隣の諸地方との境界は曖昧だったため、幾人かの古代著述家はラオデキアを別の地方の都市としている。例えばプトレマイオス (Ptolemy) およびピロストラトス (Philostratus) はカリア (Caria) の都市と呼び、ビザンチウムのステファヌス (Stephanus of Byzantium) はリュディア (Lydia) の都市としている。

Laodicea

ラオデキアは当初歴史的にそれほど重要な位置を占めていなかったが、やがて経済的に発展した。紀元前220年にはアカエウス (Achaeus) が王となった。紀元前188年に都市はペルガモン (Pergamon) 統治下となり、紀元前133年以降はローマ (Roma) の支配下に入った。ミトリダテス戦争 (Mithridatic Wars) の際には甚大な被害を受けたが、ローマ主権の下に急速な復興を遂げた。通商ルートの要所という地理的有利を活用し、共和政ローマ (Roman Republic) の後期から帝政ローマの初期にかけて財務取引および黒毛の羊毛の取引の中心として小アジアにおける最も重要で繁栄した都市となった。

地震多発地帯であり、特にネロ (Nero) が皇帝であった紀元60年の大地震によって都市は完全に倒壊した。しかしながら住民たちは皇帝による財政援助を受けることなく自分たちの資財を用いて都市を復興させた。住民の莫大な資産はギリシャ技術を取り入れることに用いられ、都市の科学や著述の発展をもたらした。アイネシデモス (Aenesidemus) の後継者であるアンティオコス (Antiochus) やテイオダス (Theiodas) の著名な懐疑派や、医学校の存在によって実証されている。富裕層は都市をきらびやかな記念碑などで飾った。それら富裕層の一人であるポレモン (Polemon) はのちにアルメニア地方のポントス (Armenian Pontus) およびトラブゾン (Trabizond) の王となった。ラオデキアは独自の効果も鋳造しており、刻印からゼウス、アスクレーピオス (Æsculapius)、アポロン (Apollo) および皇帝崇拝のあとを見ることができる。

Laodicea

また、ラオデキアはローマにより自由都市とされた。属州をさらに区分した、24の都市をひとまとめとする地域 (Roman conventus) 内の主要都市となった。キケロ (Cicero) は紀元50年に巡回裁判を行ったことを記録している。

ヨセフスのユダヤ古代誌によればアンティオコス3世 (Antiochus III the Great) はバビロニア地方 (Babylonia) から2000人のユダヤ家族をフリギュア地方に移住させた (xii.3.4)。ラオデキアの住民の多くはユダヤ人で、キケロはユダヤ人がエルサレム (Jerusalem) の神殿に寄進するはずであった20タラント (talents) 、およそ684キログラムの金をフラックス (Lucius Valerius Flaccus) が押収したと述べている。またユダヤ人であるルリアノスとパフォス (Lulianos and Paphos) の殉教もこの都市で起こったとされている。

資料