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ミレトスの歴史

Updated: 5/14/2022 Original: 3/9/2018

ミレトス

歴史上果たした役割の大きさとは裏腹に、閑散としたさまでミレトスは佇んでおりました。湿地帯が広がる平原にひっそりと劇場跡が残っています。それ以外にはあまり建築物は残っておらず、荒廃した土台の分布から都市の境界を想像するのがやっとでした。

もともとは海岸線にあった街なのですが、泥が沈殿して港としての役割を果たせなくなったそうです。確かに周りは沼地で、現在の海岸線ははるかかなたにまで退いていました。過ごしやすい環境なのでしょう、トカゲや亀など小動物が所々で住処を作っていました。

ミレトス

ついでエフェソスに向かうのですが、2都市間の距離を体感できたのは大きな収穫でした。

歴史 (英語版 Wikipedia その他より抄訳)

ミレトス

暗黒時代以前

ミレトス (Miletus) に関する記録は後期青銅器時代にさかのぼることができ、ヒッタイト帝国 (Hittite Empire) およびミケーネ (Mycenaean) 文明に見られる。

紀元前1450頃から紀元前1100年まで小アジア沿岸におけるミケーネの要塞だった。紀元前1320年にはヒッタイト帝国に対する反乱を支持し、ヒッタイト帝国の襲撃によって一部が破壊された。その後ヒッタイト人によって沿岸防御の要塞として強化されている。

ホメロス (Homer) はトロイ戦争 (Trojan War) に関する記述の中でミレトスがトロイと連合を組んでいると述べており、カリア人 (Carians) の都市としている。

古代ギリシャの暗黒時代 (Greek Dark Ages、つまり記録の乏しい時代) からの俗説によればイオニア人 (Ioneans) がミレトスを攻略した際に、ミレトスのやもめたちをめとることでイオニア人との連合関係が始まった。

古代

紀元前800年ごろ、12の都市によるイオニア同盟 (Ionean League) の1つとなり、レラントス戦争 (Lelantine War) に参戦した。ギリシャのメガラ (Megara) と強い関係を持った。両市ともアポロ (Apollo) の神託によって治められており、政体にも多くの面で共通点があった。

紀元前7世紀のリュディア帝国 (Lydian Empire) との12年にわたる戦争ののち、僭王トラシュブロス (Thrasybulus) が独立を宣言した。コリント (Corinth) の七賢人の一人である僭主ペリアンドロス (Periandros) と親しく、同盟関係にあった。

哲学および科学の発祥地となり、ターレス (Thales)、アナクシマンドロス (Anaximandros)、アナクシメネス (Anaximenes) からなるミレトス学派を生んだ。

紀元前6世紀までにミレトスは多くの植民地を持つ海洋国家となったが、同時にリュディア (Lydia) やサモス (Samos) との衝突も経験した。

ミレトス

第一アケメネス期、ギリシャ期、第二アケメネス期

紀元前6世紀にペルシャ (Persia) のキュロス (Cyrus) がリュディアのクロイソス王 (Croesus) をやぶった際、ミレトスもペルシャ配下となった。

紀元前499年、僭王アリスタゴラス (Aristagoras) はペルシャ支配に反抗するイオニアの反乱 (Ionian Revolt) を首謀したが、ダレイオス1世 (Darius the Great) に鎮圧された。懲罰としてミレトスの女性たちや子供たちは奴隷とされ、男たちは皆殺しとなり、若い男の子は去勢させられた。ミレトス人が二度と生まれないようにするためであった。

紀元前479年、ギリシャがプラタイアの戦い (Battle of Plataea) でペルシャを破り、ミレトスはペルシャの支配から自由にされた。

しかし後にコリントス戦争 (Corinthian War) にて結ばれたアンタルキダスの和約 (Peace of Antalcidas) で、ミレトスはアルタクセルクセス2世 (Artaxerxes II) によるアケメネス領とされ、再びペルシャ監督下の都市となった。

ミレトス

マケドニア期

紀元前334年、アレクサンダー大王 (Alexander the Great) によるミレトス包囲 (Siege of Miletus) によりペルシャの統治から解放された。近隣諸国の解放も続き、これを機にミレトス市の境界線は最大まで拡張した。

紀元前323年にアレクサンダー大王が没した後はプトレマイオス (Ptolemy) 領となり、リュディア太守のアサンドロスが統治した。紀元前312年、マケドニア (Macedonian) の将軍アンティゴノス1世 (Antigonus I Monophthalmus) により自由を得て自治領として民主統治を回復した。

紀元前301年、イプソスの戦い (Battle of Ipsus) でアンティゴノス1世がリュシマコス (Lysimachus)、カッサンドロス (Cassander) およびセレウコス1世ニカトール (Seleucus I Nicator) に滅ぼされたのちもそれら後継者たちと良い関係を保ち続けた。セレウコス1世ニカトールは神殿域建設のため莫大の寄付をしており、紀元前494年にペルシャによって奪われたアポロ (Apollo) 像を返還させている。

アンティゴノス1世の死後、その子デメトリオス1世 (Demetrius Poliorcetes) が都市監督官/執政官 (Eponymous archon) となった。リュシマコスが勢力を拡大する中でプトレマイオス1世 (Ptolemy I Soter) と同盟関係にあった時、デメトリオス1世はギリシャ各都市に重税を課すようになり、ミレトスにも貸し付けを強要した。

セレウコス期

民心を失ったデメトリオス1世は国を奪われ放逐されたが再起を図って小アジアに攻め込んだ。しかし所領を回復することができず、ミレトスを再び手に入れることはなかった。デメトリオス1世は紀元前287ないし286年にシリア (Syria) に投獄された。

後をリュシマコスが治めたが、コルペディオンの戦い (Battle of Corupedium) でセレウコスに敗れ、紀元前281年に戦死した。紀元前280ないし279年にミレトスはセレウコスによる政体に移行した。

ミレトス

プトレマイオス期

紀元前279年にプトレマイオス2世ピラデルポス (Ptolemy II Philadelphus) が セレウコスのアンティオコス2世テオス (Antiochus II Theos) を破り、都市を手中にした。

ローマ時代まで

紀元前2世紀にはアンティオコス4世エピファネス (Antiochus IV Epiphanes) や、ペルガモン (Pergamum) のエウメネス二世 (Eumenes II) の支配などを受けた。

紀元前133年に、ローマのアジア属州となった。反ローマ勢力のミトリダテス (Mithridates IV Eupator of Pontus) などの攻撃を受けるが、全体として繁栄を遂げた。

紀元前19年にアウグスツス (Augustus) が訪れており、その際にアウグツス、アポロへの神殿が建立された。紀元前17/16年のローマの年号改正に伴い、アウグスツス (Augustus) に対する表敬からミレトスもローマ年号を採用した。

カリギュラ (Caligula) への神殿も建立されたが場所は確定していない。トラヤヌス (Trajan) およびハドリアヌス (Hadrian) の時代に大規模整備が施され、商業都市としての地位を固めた。

やがて6世紀に2つの湾が沈泥によって塞がれるに至って人口が減少し、以前の繁栄を取り戻すことはなかった。

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