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サルデスの歴史

Updated: 5/14/2022 Original: 3/8/2018

サルデス

最も目立つ建物は浴場・競技場施設 (Bath-Gymnasium Complex) です。想像力を働かせずとも当時を思わせるほど、しっかりした仕方で復元されていました。

移動中に大雨にさらされたので、見学自体が可能かどうか少し心配でした。でも到着してすぐに雲に切れ間が見え始め、爽やかな風とともに昔を偲ぶことができました。

同じ区画にユダヤ人のシナゴーグ跡も並んでおりました(上の写真だと、左半分がシナゴーグ跡、右半分が競技場跡です)。小アジアでは最大級だそうです。ローマ時代後期に入ってもしっかりとしたユダヤ人コミュニティーが存在していたことを示す資料です。450年から500年ほどシナゴーグとして利用され、のちには競技場の一部をシナゴーグにするまでに拡張しました。

サルデス

到着時間が遅かったので、少し離れたところにあったアルテミス神殿は写真を撮るだけにして、次回の楽しみとしました。

歴史 (英語版 Wikipedia, Britannicaより抄訳)

サルデス

リュディアおよびペルシャ、ギリシャの都市として

リュディア (Lydia) 王国としては紀元前1200年ころから同546年まで存在していた。

紀元前560年から同547年ないしは546年に統治したクロイソス王 (Croesus) 時代にリュディア王国としての繁栄を極めた。絨毯などの羊毛加工業や染色業だった。砂金が取れる地帯でもあり、金を銀から分ける技術を持っていたという。ナボニドス年代記 (Nabonidus Chronicle) にはこの王が紀元前547年に没したと推測できる文があるが、地名が欠落しており確実ではない。

のちにペルシャ人 (Persians) キュロス大王 (Cyrus the Great) に征服され、リュディア王国としての終わりを迎えた。サルデス包囲 (The Siege of Sardis) についてヘロドトス (Herodotus) に記録がある。サルデスの要塞は難攻不落でキュロス攻囲中も幾度となく攻撃を跳ねかえしたが、一人のペルシャ兵の機転によって敗北を期した。急斜面の上に建てられた城壁の一箇所がリュディア人の慢心から兵の配備が不十分だった(もしくは不落祈願の宗教儀式を執り行っていなかった)。あるペルシャ兵が、兜を落としたリュディア兵がその箇所の外壁を上り下りしているのを見つけ、その同じ仕方で城内に侵入することができた。それに倣ったペルシャ兵がその箇所から要塞を攻略することができ、要塞はやがて陥落した (Herodotus, I., p. 75)。

シナゴーグ

ペルシャ侵攻後は、ペルシャの行政区域 (Satrapy) の主要な都市とされた。首都ペルセポリス (Persepolis) から続く「王の道」(Persian Royal Road) の終点となる。

紀元前498年には、イオニアの反乱 (Ionian Revolt) の際、アテネ人 (Athenians) およびエレトリア人 (Eretria) の支援を受けたイオニア人に占拠された。ペルシャ人の反撃により取り返されるも、大部分は戦火によって焼け落ちた。その後紀元前334年にアレキサンダー大王 (Alexander the Great) の侵攻を受けるまでペルシャ配下の都市だった。

トラキア (Thrace) 王リュシマコス (Lysimachus) 統治下にあった紀元前3世紀には、セレウコス (Seleucid) 王アンティオコス3世 (Antiochus III the Great) によっても侵略を受けている。

のちにアッタロス (Attalids) 配下になり、紀元前133年のアッタロス朝終焉に伴いにローマ領となった

サルデス

ローマ時代

17 ADの大地震で壊滅するも、ローマ皇帝ティベリウス (Tiberius) の支援策により再建される。一千万セステルティウス (Sestertius) の支援と、先5年の税免除を与えられた。これを受けてサルデスはティベリウスに対する表敬の意から同皇帝の彫像をローマに寄付している。また43 ADにはサルデス市内にも、市の設立者 (founder of the city) として像が建立された。

サルデス