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ペルガの歴史

Updated: 5/14/2022 Original: 12/18/2019

ペルガ

ほとんど事前知識がなく訪れたので、その大きさに圧倒されてしまいました。目抜き通りが山裾までずっと続いていました。港から降りた人たちは、都市の大きさと喧騒に圧倒されたことだと思います。

朝一番で訪れたせいか人が誰もおらず、かえって昔に思いを馳せる良い時間を過ごすことができとても満足な見学となりました。もともとそんなに時間をかける予定ではなかったのですが、気づくと数時間が経ってしまっていました。

Perga Perga

使徒行伝 13:13; 14:24,25 にも都市の記述があります。近辺から見つかっている細かな発掘物はアンタルヤ考古学博物館に展示されているのですが、当時をうかがわせる展示物であふれていました。膨大な情報量にイマジネーションが広がり、ペルガでも博物館でも非常に有意義な時間を過ごせました。

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昼ぐらいにやっとグループが一つ入ってきたのが丘の上から見えましたが、おりてみてみると学生の社会科見学でした。

歴史 (英語版 Wikipedia その他より抄訳)

紀元前1500年代にヒッタイト (Hittite) 人によって建設された都市。

ヒッタイト王トゥドハリヤ4世 (Tudḫaliya IV) と、その家臣であるタルフンタッサ (Tarḫuntašša) の王との間で結ばれた協定に、おそらくペルガと思われる都市の記述がある。タルフンタッサの王の西側の境界がペルハ (Parha) と呼ばれる都市、およびカスタラヤ川 (Kastaraya River) と定められている。カスタラヤ川はおそらくケストロス川 (Cestrus river)、現在のアクス川 (Aksu river) のことで、ペルハの西側はルッカ (Lukka land) となる。ペルハの住民は後期ルウィ語 (Luwian language) の派生語で、リュキア (Lycian) やヒッタイト新王国 (Neo-hittite kingdom) で話されていた言語を話していたと考えられる。

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その後は、ギリシャ (Greek) のパンフリア (Pamphylia) の都市の一つとして言及されており、ペルシャ (Persian)、アテナイ (Athenian)、ついでまたペルシャの支配を受けた。アレクサンダー大王 (Alexander the Great) はファセリス (Phaselis) を離れたのち、軍の一部とともにペルガを占領した。アレクサンダー後はセレウコス朝 (Seleucid) が支配し、のちにローマ (Romans) 領となった。

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のちにアルテミス (Artemis) への信仰により再度注目された。アルテミスへの神殿が都市の外の丘に建てられ、年ごとの祭りが行われた。ペルガの貨幣にはこの女神とその神殿が刻印された。

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やがてビザンチン (Bizantine) 時代に、アスク川の沈泥によって覆われ人口を減らしていった。

参考