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スミルナの歴史

Updated: 5/14/2022 Original: 3/11/2018

スミルナ

トルコ第 3 の都市です。近代的な整備がなされているようですが、下町的なところもあってバラエティーに富んでいましたね。相当深くまで内海が伸びているので、海もとても穏やかでした。

イズミルの港から、エーゲ海をまたいでギリシャはアテネの港ピレウスまでフェリーが運行しています。視点を内陸部に向けると、イズミルには内陸に向けて長距離列車の発着地点となる大きな駅もありました。今も昔も小アジアの玄関口としての役割は変わっていないようです。

あまり多くの遺跡が残っているわけではないようですが、アゴラや考古博物館にいくと、さすが古くから栄えた街であることが伺い知れました。

この都市では是非ミディエドルマ (Midye Dolma) というのを召し上がっていただきたい。上手に探さないと暑い時期にはお腹を壊すこともあるそうなのですが、それを差し引いてもとにかくうまい。バケツいっぱい出されたって食べれる自信がある。

歴史 (Wikipedia 英語版から抄訳)

紀元前 687 年まで

2005 年から行われているイェシロバ遺丘 (Yeşilova Höyük) の発掘から、紀元前 2000 年代またはそれ以前の定住の痕跡が示唆されている。小アジア (Asia Minor) 沿岸部にギリシャ人が入植 (Greek colonists) するようになる紀元前 1000 年より前に定住していた、先住民レレゲス人 (Leleges) のものかもしれない。古典古代を通じて、スミルナはエーゲ海沿岸及び近隣諸島を含むイオニア (Ionia) における中心的な都市国家だった。またホメロス (Homer) が居住していたとされる都市うちの 1 つでもある。

レスボス島 (Lesbos) およびキュメ島 (Cyme) に定住していた初期のアイオリス人 (Aeolian) は西部に範囲を拡大しスミルナ渓谷 (the valley of Smyrna) を占領した。アイオリス都市国家同盟の 1 つとなり、これがイオニア人入植地との国境を形成した。

Izmir

やがてイオニア人都市コロフォン (Colophon) の居住者もしくは難民がスミルナに住むようになった。彼らは紀元前 688 年の暴動の際に都市の主導権を握り、スミルナをイオニア都市国家連合の 13 番目の都市とした。その際に神話ではスミルナはエフェソス (Ephesus) の入植地と書き換えられた。紀元前 688 年に、スミルナ出身のイオニア人拳闘選手オノマストス (Onomastus) がオリンピアにおいて賞を獲得しているが、政変が起こったのはその前後であったと考えられる。紀元前 600 年以前に生き、自身をコロフォン出身ともスミルナ出身ともしたミムネルムス (Mimnermus) もコロフォン人による征服について記述を残している。アイオリス式の名前は古代アテナイ方言 (Attic dialect) にも引き継がれ、征服後も「アイオリスのスミルナ」(Aeolian Smyrna) という添え名 (epithet) はある程度の期間にわたって残った。

Izmir

スミルナはヘルモス (Hermus) 川の河口にあり、内陸部に遠く到達する海 (Smyrnaeus Sinus) の岬部分に位置していた。ギリシャの貿易船はリュディア (Lydia) の中心部にまで航行することができ、都市はアナトリア (Anatolia) とエーゲ (Aegean) の間にあって重要な役割を果たすようになった。紀元前 7 世紀中にスミルナは繁栄し強力な都市となった。アナトリアを横断する通商路の 1 つは、サルデス (Sardis) を越えてヘルモス渓谷 (Hermus valley) を下り、渓谷から分かれてスピル山 (Mount Sipylus) の南を通過し、低い山道から谷あいを通って山と海の間に位置するスミルナに到着するルートであった。他のアナトリアを横断する通商ルートの海の終点に位置するミレトス (Miletus)、のちにはエフェソス (Ephesus) もスミルナとの競合で成功を収めたが、のちに港が沈泥によって塞がれるに至ってその勢いを失った。

Izmir

スミルナのそばを流れるメレス川 (Meles River) については多くの文献で触れられており、谷周辺での崇拝の対象であった。一貫して広く信じられてきた伝承によれば、ホメロスはスミルナ渓谷およびメレス川のほとりと関連づけられている。スミルナで広く流通していた通貨の 1 つには彼が刻印されており、貨幣収集家の間でホメリアン (Homerian) と呼ばれている。「メレスの子」(Melesigenes) という添字が彼について用いられ、河岸地域にはホメロスの神殿 (Homereum) が建築された。メレスの季節に関わりのない穏やかで一定した流れや、始まりから終わりまでの短い流れがアリステイデス (Aristides) やヒメリウス (Himerius) によって讃えられている。源流は都市の東に位置する豊富な水源地に位置し、湾の南東端にそそぐ。

旧市街には紀元前 7 世紀に建立されたアテナ (Athena) 神殿があった。

アゴラ

リュディア時代

メルムナス朝の王たち (Mermnad kings) がリュディアで権力を取り攻勢に転じた際、まずスミルナがその目標となった。しかしギュゲス (Gyges) はヘルモス河岸で敗北し、戦場の推移を見るにスミルナは勢力を東に拡大した。おそらくスミルナのイオニア人によって、ニンファイ峡谷 (the valley of Nymphi) を制圧するためスミルナとニンファイを結ぶ丘の上に強固な要塞が建てられた。その堂々とした要塞跡は現在でも訪れることができる。

テオグニス (Theognis) によれば、誇りがスミルナを滅ぼした。ミムネルムス (Mimnermus) は、リュディアの進攻を食い止めることができなくなっていた当時の市民の道徳的な退廃を嘆いている。最終的にアリュアッテス (Alyattes) が都市を征服し略奪した。完全な崩壊ではなかったが、ギリシャ式の生活と政治は破壊され、ポリス (polis) は村集落単位へと再編成された。スミルナについてはピンダロス (Pinder) の断章や紀元前 388 年の銘刻に言及があるが、もはや繁栄は以前のものとなった。

アゴラ

ヘレニズム時代 (Hellenistic period)

アレクサンダー大王 (Alexander the Great) はこのギリシャの都市を復興させる計画を持っており、ストラボン (Strabo) によればアンティゴノス (Antigonus) およびリュシマコス (Lysimachus) が実行に移して都市を拡大し要塞化した。倒壊した「スミルナの冠」(crown of Smyrna) と呼ばれる旧都市のアクロポリスは 380 メートルの急峻な頂上に位置し、湾の北東端に突き出していた。現在のイズミル (İzmir) はヘレニズム時代の都市の上に建てられ、一部は湾の南東端近くのギリシャ人がパゴス (Pagos) と呼んだ曲線的な丘の斜面、一部は丘と海の間に位置する低地に位置した。古代の人々はしばしば、このように低地部分と斜面に沿って段々に上がっていく部分からなるヘレニズム都市の美しさについて讃え、貨幣に刻印した。

現在デーイルメンテペ (Deirmen Tepe) と呼ばれる、頂上に遺跡の残る丘によってスミルナは西部へと封じられている。リュシマコスによる城壁がこの丘の頂上を横切っており、アクロポリスはパゴスの頂上を占めていた。この 2 つの間をエフェソスからの道が、近辺にギムナジウム (gymnasium) があったエフェソス門 (Ephesian gate) を経て都市に通じていた。アクロポリスに近づいても競技場の輪郭を望むことができ、劇場はパゴスの北側の斜面に位置していた。スミルナには 2 つの港があった。外側の港は停泊地、内側の港はのちに 1402 年にティムール (Tameriane) が一部を埋め立てた狭い入り口の入り江となっていた。

Izmir

道路は広く作られ、よく舗装され、適切な都市計画がなされた。多くは神殿にちなんで名前がつけられており、「黄金」の名がついた本通りは東から西に都市を貫いていた。パゴスの西斜面にあったゼウス・アクラウス (Zeus Akraios) 神殿から始まり、パグスの低斜面を(演説家アリステイデス (Aristides the orator) の好んで用いた表現によれば、像のネックレスのように)迂回して、都市の東の丘において守護女神のメーテル・スピレネ (Meter Sipylene) として崇拝されたキュベレ (Cybele) 神殿に至った。その名は都市の後背地となる渓谷との境界となった近郊のスピル山に由来する。海に向かう平野は低い位置にあったので適切な排水に適さず、雨が降ると都市の低地部分にあった道路は泥水に深く覆われた。

ヘレニズム時代の末期にあたる紀元前 197 年、都市は突如としてペルガモン (Pergamum) のエウメネス (Eumenes II) 王との連携を解消し、ローマ (Rome) に支援を求めた。それまでにスミルナはローマとの間に関係性を持っていなかったため、ローマ崇拝を創始して絆を強めようとした。やがてこの崇拝はローマ帝国全体に広がった。紀元前 195 年の時点でローマ市は女神ローマ (Roma) への崇拝の中で神格化された。このような背景からスミルナ人が女神ローマを作り上げたということもできる。

紀元前 133 年、後継を持たなかったアッタロス朝 (Attalid dynasty) のアッタロス 3 世 (Attalus III) の死を受けて、スミルナを含む領土がローマに譲渡された。スミルナはローマのアジア属州 (Roman province of Asia) に組織され、ペルガモンがその首都とされた。スミルナはそれでも主な海港都市として新しく組織された属州にあって主要な都市として栄えた。

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ローマ時代

ローマのアジアにある主要な都市の 1 つとして、スミルナはエフェソスとペルガモンの間でアジアの第一の都市の称号を争った。

相当数であったと思われるユダヤ人入植者の間でキリスト教会および司教職がその初期から存在していた。黙示録 (Book of Revelation) に記述がある 7 つの教会の 1 つである。スミルナをアンティオキアの聖人イグナティオス (Saint Ignatius of Antioch) が訪れており、のちに司教ポリュカルポス (Polycarp) へ手紙を書いた。153 年、ユダヤ人と異教徒の暴徒の教唆によりポリュカルポスは殉教を遂げた。ポリュカルポスに聞いた聖人エイレナイオス (Saint Irenaeus) はスミルナの出身であると考えられている。同時代の著名な住民にアエリウス・アリステイデス (Aelius Aristides) がいた。

178 年の壊滅的な大地震ののち、スミルナはマルクス・アウレリウス帝 (Emperor Marcus Aurelius) の元に再建された。アエリウス・アリステイデスはマルクス・アウレリウスとその息子であるコンモドゥス (Commodus) に書簡を送り、新たな都市創建者としての立場についてもらうよう依頼した。皇帝の妻ファウスティナ (Faustina) の胸像を西部柱廊の第二アーチに見ることができる。

資料

Wikipedia: Smyrna as of 7/20/2021